祭神:
平津○売命(あひらつめのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
武みか槌命(たけみかづちのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
天児屋根命(あめのこやわのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)
経津主命(ふっぬしのみこと)
鎮座地:日南市材木町九番二〇号の一
例祭日:十一月十四日
社殿:
本殿(神明造) 二・七坪
拝殿(権現造)四二・二坪
境内坪数:三、〇六六坪
創立年月日:和銅二年(七〇九)
由緒沿革
江戸時代、飫肥十一社の一として歴代藩主の崇敬篤く、万治三年(一六六〇)以来、棟札によると、貞享四年(一六八七)、宝暦三年(一七五三)、安、氷四年(一七七五)と造営が重ねられて来た。旧称は乙姫大明神と呼ばれ、通称乙姫神社で通っている。まず、吾平津の名は、『日向纂記』では、油津以北から鵜戸山までを吾平といい、鵜戸山を吾平山というのもそのためで、油津は元の吾平津であろうとの安井息軒の説を引用し、神武天皇最初の妃吾平津姫を祀るとしている。『日本開閉史』によると、吾平津姫は阿多ノ君小椅(おはし)の妹にして火聞降命の裔なりとし、北郷町に火蘭降命の遣蹟があり、隣りの吾田に天皇との間の手研耳命を祀る神社があるところから、姫の出生地は油津だったという。
明治維新に際し、伊東祐帰知事の意により吾平津神社と改称され、明治五年平野村の春日神社、八幡神社、稲荷神社、妻万神社を合祀し、一時期平野神社と改められた。その後、八幡神社が再遷座されたため、もとの吾平津社となった。
明治三十二年の宮崎神宮の神武天皇御降誕祭に際し、社殿、神苑の拡充をはかり、同四十年二月、神○幣○料を供進すべき神社に指定され、昭和八年郷社となった。大正十五年には、氏子河野宗四郎が単独で社殿を改築、昭和九年には神武天皇御東遷二千六百年祭に当り、聖蹟として顕彰された。現在の社殿は昭和四十八年、第六十回、伊勢神宮式年遷宮と時を同じくして、神殿、幣殿、拝殿など一切、氏子崇敬者の熱意と浄財で改築された。神武天皇関係の聖蹟顕彰は、吾平津姫を主祭神としたものだが、『県史賠調査第六輯』では、日向神社考、ならびに那珂郡神社調書から、あるいは、景行天皇妃、八坂入姫を祀るとせりと記載、古墳の部で、堀河をはさんで、標高十㍍の小丘陵があった油津町古墳の調査結果を記録している。貞享年間、伊東藩が堀河を開発するまでは、神社の続きの境内だったもので、本境は、文久三年(一八六三)に発掘され、その出土品の海獣鏡、曲玉、環などの鑑定結果から伝説吾平津姫の御陵、また吾平山上陵ではなかったかとしている。いずれにせよ、日南海岸に臨む港油津の守護神として崇拝されている。
末社には稲荷神社、御門神社がある。
特殊神事には、漁神楽が毎年旧暦三月二十一日、堀河と油津港にはさまれた海難者慰霊碑の立つ人柱公園で、豊漁と海上安全を祈念して奉納される。油津の漁業者は、申し合わせによる年に一度の休漁日で、その禁止を守らなかった者は獲物没収の罰則まであり、油津漁協の主催。その日は多数の漁業者が参集して斎行される。新鮮な刺身を肴に焼酎が酌み交わされ、漁神楽は盛り上がり賑わう。神楽山の注縄竹の五色の御幣を得たものは、その年豊漁に恵まれるという言い伝えがある。
このため神楽終了後の御幣獲得合戦は激しい。
注縄竹(孟宗竹)を自分側に引き倒しながらの争いは煩烈を極め、海に生きる漁業者の心意気を示すフィナーレである。
吾平津神社は漁師町の象徴の町でる。どうも今までいてきた神社と趣が違う。漁師は森林の神というよりも海を尊ぶ位置づけで捉えているようです。 山林や森など小山に立地している神社と比べると、 ·神社周辺に大木がない。 ·神殿が鉄骨・鉄筋づくりである。 ·トイレ完備 ·全体的を綺麗で、寄付金が多いようである。 |
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近代的な独特なつくりであり、建物周辺には木造づくりの面影もない。 |
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