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| 日南海岸の鬼の洗濯岩 | 日南海岸の全て 1 2 3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2007年9月12日、曇りのち晴れ、16:00〜17:15分、 南〜北へ向けて日南海岸〜宮崎国際航空〜夕暮れの宮崎県の大空を飛行機上(高度1万m位から撮影) |
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| 津の町は、日南市で最も繁華な町と言っていいだろう。油津は油津港を中心に古く奈良平安の時代から開けていた土地だった。江戸時代には伊東藩の要港として栄え、飫肥杉の積出港としての役割を担った。明治期に移って自由経済の時代に入ると油津港はますます繁栄し、堀川運河の河岸には多くの商家が建ち並んで賑わったという。昭和初期には油津港はマグロの豊漁に沸いた。世に言う「マグロ景気」で、日本のマグロ相場は油津によって決まるとまで言われたものだそうだ。1950年(昭和25年)に油津町、吾田町、飫肥町、東郷村の四つの町村が合併して日南市が誕生、「油津町」の名が消えてすでに久しい。現在、町名としての「油津」の名は、油津港近くの街区の名として残るのみだが、かつての「油津町」の名残か、地元の人たちは今でも油津港からJR日南線油津駅前辺りにかけての地域を総称して「油津」と呼び慣わしている。
油津の町の象徴とも言えるのが堀川運河と堀川橋だろう。堀川運河は木材の搬出を容易にする目的で、広渡川と油津の港を繋いで開削されたものだ。1683年(天和3年)の12月に開削工事が始まり、1686年(貞享3年)の春に完成したという。その堀川を跨いで東西を繋ぐ石橋が堀川橋だ。堀川橋は1903年(明治36年)に完成したものという。堀川の東側、堀川橋の袂から少し南へ下ると細い路地が縦横に延びる一角がある。路地沿いには古い時代を彷彿とさせる家々が今も建ち並んでいる。路地はとても狭く、車両の通行が何とか可能という程度だが、それもまた車が一般的になる以前から続く町並みであることをうかがわせて楽しい。現在では「油津一丁目」、「油津二丁目」などという名の街区だが、かつては「上町」、「中町」、「下町」と呼ばれて繁華な町並みを形成していた。この町並みこそが、かつて繁栄を謳歌し、活気に満ち溢れていた油津の町そのものである。今では町の中心部を貫くように国道220号線が通り、町はそれによって二分されているような様相だが、特に国道220号線と堀川運河に囲まれた一角は今も往時の面影を色濃く残している。 平成16年度後期(2004年9月27日〜2005年3月26日放送)のNHK連続テレビ小説「わかば」は日南市の飫肥の町が物語の舞台のひとつとなっていた。主人公若葉の伯父の家である「村上酒造」の玄関先が印象的に幾度も劇中に登場したが、その「村上酒造」の玄関先のロケ地は実は飫肥ではなく、この油津の町の一角にあった。町中の路地をのんびりと歩けば、「わかば」のドラマで見覚えのある風景に出会うことができるだろう。 油津一丁目の国道220号線沿いに杉村金物本店がある。杉村金物本店は1892年(明治25年)創業の老舗で、三階建ての美しい建物は1932年(昭和7年)に建築されたものという。一階が金物や漁具、船具などを商う店舗で、二階三階は住居となっている。建物は現在もほぼ建築時の外観を残しているといい、この主屋と赤レンガ造りの倉庫は1998年(平成10年)、文化庁の登録有形文化財に登録されている。
吾平津神社の鳥居の傍らに「男はつらいよロケ地」を示す案内板が建てられている。堀川橋を中心とした一角は山田洋次監督による松竹映画「男はつらいよ」の第45作「寅次郎の青春」(1992年)の舞台となった。そのロケ地になったことを示す案内板だ。堀川橋周辺には明治期から昭和初期に建てられた建物も多く、その景観は古き佳き時代を彷彿とさせて郷愁を誘う。その町並みの佇まいが「男はつらいよ」の作品世界のイメージに合致したのだろう。山田洋次監督も主演の故渥美清もこの町並みに愛着を覚え、関係者にそうした感想をもらしていたと聞く。
「銀天街」に西から、すなわち油津駅側から入ってゆくと、南側の並びに「松坂屋」という洋装店があった。男性用のカジュアルウェアを扱う店だったが、学生服なども扱っており、当時の男子中高生たち御用達の店だった。この店でよくズボンやシャツを買ったものだ。同じ側の並びに、名は忘れてしまったが食堂があり、そこではよくうどんを食べた。「銀天街」の中ほどには「日南(ひな)人形店」と「ひとみ人形店」という二つの玩具店が斜向かいで建っていた。二つの店は品揃えが微妙に違っており、子どもの頃におもちゃを買って貰うときなどには、必ず双方の店に立ち寄って目当てのものを選んだものだった。二つの玩具店のすぐ近くだったか、南側の並びに「鰻の寝床」のような狭い間口のたこ焼き屋があった。おじさんが店先でたこ焼きを焼いていた。奧に入ると二人がけの小さなテーブルが二つほどしかないほどの狭さだったが、子どもたちで賑わっていたものだ。 昭和30年代から昭和40年代にかけて日本は高度成長期の真っ直中だったこともあり、油津の町は時代に迎えられて繁栄を謳歌したのだ。しかし、やがて時代の変遷と共に油津の町の繁栄にも翳りが見え始め、「銀天街」に建ち並んだ商店も櫛の歯が抜けるように少なくなっていった。繁栄の時代から40年ほどを経て、今ではすっかり寂れてしまった観がある。時代の象徴だったアーケードも、すでに一部が残るのみだ。かつて馴染んでいたさまざまな店も今は無い。「銀天街」の二つほど南側の筋には映画館の並ぶ一角があった。かつては近隣から多くの客を集めたものだが、これも今は無い。
かつて繁栄を謳歌した油津の町も、いつしか時代に置き去りにされるように活気を失ってしまったが、ひっそりと鄙びた港町の風情が郷愁を誘って興趣に溢れている。堀川運河とその周辺の町並みの歴史的価値が見直され、観光資源として活用しようという努力も続いている。宮崎県南の商業の中心として賑わった油津の町だが、やがて宮崎県を代表する観光地のひとつとして再生する日も遠くないかもしれない。
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鵜戸神宮は日本神話に語られる山幸彦・海幸彦の伝説の舞台となった場所として知られる。邇邇藝命と木花之佐久耶毘売との子である海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命)はそれぞれ漁と狩りを生業として暮らしていたが、ある時、山幸彦の申し出によって互いの道具を交換して仕事に出る。慣れぬ仕事で成果は上がらず、さらには山幸彦は兄の大事な釣り針を無くしてしまう。 途方に暮れる山幸彦は塩椎神の助言に従って綿津見神の宮へ行き、そこで綿津見神の娘である豊玉姫を妻とする。やがて山幸彦は釣り針を取り戻して陸に戻るが、山幸彦の子を身ごもっていた豊玉姫が出産のためにやってくる。豊玉姫の出産のための産屋が、今は鵜戸神宮本殿の建つ洞に用意されたのだという。鵜の羽を用いた立派な産屋だったが、完成が出産に間に合わず、そのことから生まれた子は鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。鵜戸神宮はこの鵜葺屋葺不合命を祀っている。 「出産の時には本来の姿に戻らなくてはならず、その醜い姿を見られたくないから出産の際は産屋の中を覗かぬように」と豊玉姫は山幸彦に言ったのだが、心配する山幸彦は中を覗いてワニの姿に戻って出産する姫の姿を見てしまう。それを悲しんだ豊玉姫は海原の国へ戻ってしまった。姫は子のために乳房を置いていったと伝えられる。山幸彦ひとりで子を育てるのは大変だろうと、豊玉姫は妹の玉依姫を乳母として地上に送る。やがて成長した鵜葺屋葺不合命は玉依姫を妻とする。ふたりの間に生まれた子の中に、後の神武天皇がいる。
鵜戸神宮はその伝説のためか、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの御利益で近隣の人々の信仰を集めてきた。古くは日向の国のみならず、大隅、薩摩からも御利益を求める人々が鵜戸への街道を辿ったという。かつて昭和40年代に宮崎と日南海岸が新婚旅行ブームで賑わった時代、鵜戸神宮参拝が旅行コースに欠かせない場所であったのも、その御利益によるものだろう。 昔はこのあたりの新婚夫婦は必ず鵜戸さんにお参りするという風習があった。新婦を馬に乗せ、新郎は手綱を引いて、夫婦は参詣の街道を辿った。その馬の首に付けられた鈴をシャンシャンと鳴らしながらの道中だった。そのことから「シャンシャン馬」と呼ばれるようになり、その名は今も広く知られている。この風習は一説には元禄の頃から始まったもののようで、大正初期頃まで続いた後に途絶え、今は宮崎神宮の例大祭での「ミス・シャンシャン馬」のイベントなどに面影を残すのみとなってしまった。 現在では鵜戸神宮へ至る道路も整備され、参詣も手軽だが、かつては「日向七浦七峠」とも呼ばれる厳しい道程を経ての参詣だった。いくつもの峠を越えて鵜戸さんへ参詣した昔の人々にはもちろん深い信仰心があったのだろうが、当時の鵜戸さんは多くの参拝客を集めて賑わう繁華な場所であったはずで、そうした賑やかさへの憧れのようなものもあったのかもしれない。
鵜戸神宮はJR日南線の駅からは少々距離があるが、海岸線を通る国道220号線から近く、駐車場も完備されて車で訪れるのは容易だ。昔は鵜戸神宮入口近辺は立ち寄る車と通り抜ける車とが入り混じって混雑したものだが、今は少し山側に長いトンネルを抜けるバイパスが完成して昔ほどの混雑はなくなった。それでも初詣の時期には多くの参拝客が訪れて付近の渋滞は免れない。 旧国道脇にはバス用の大きな駐車場も用意されているが、普通の乗用車であれば岬の南岸に沿った道路を辿って神社近くの駐車場へ行くことができる。岬の断崖の上を辿る参道の入口付近、社務所の建つ前あたりには駐車場の脇に土産物屋が軒を並べている。今では少々寂れてしまった観もあるが、かつては大勢の参拝客で賑わったものだった。
吾平山上陵へと向かう小道の脇には「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」を示す案内板がある。ヘゴは湿地を好む熱帯性の木生のシダで、その高さは4メートル以上にもなるという大型のものだ。鵜戸神宮北側の林の中、水田跡の窪地にそのヘゴが30本ほど自生しているという。その生態が珍しいとのことで、国指定天然記念物にもなっている。
「運玉」は5個ワンセットで購入し、男性は左手で、女性は右手で、願い事をしながら桝形をめがけて投げる。昔は小銭を投げ入れていたのらしいが、1954年(昭和29年)に粘土の素焼きで作った「運玉」が考案され、以来地元の小学生の作る「運玉」を投げるようになった。参拝の際には試してみるとよいだろう。鵜戸神宮では参拝客が投げて桝形に入った運玉を回収し、「幸の玉御守」と名付け、一願成就の御守りとして販売している。なかなか御利益がありそうに思えるから不思議だ。 運玉投げは簡単に入りそうに見えるのだが、意外に難しく、なかなか命中しない。桝形の窪みには海水が溜まっていて、うまくいけばその中にポチャンと入るのだが、逸れて岩の上に当たると運玉が割れてしまうこともある。「願い事が砕け散ってしまったよ」などと言ってはしゃいだりしたものだった。ついつい投げ入れるのに夢中になり、運良く桝形に入った時には願い事をするのを忘れていた、などといったことになったりするのも楽しい。
社殿の周囲を廻って洞の奥へ進むと、豊玉姫が海に帰る際に我が子のために置いていったという乳房が「お乳岩」として残っている。乳房を思わせる形状の突起がふたつ並んでいるというものではなく、岩盤上の少々離れたふたつの突起のシルエットが特定の角度から見ると乳房の形に見えるというもので、これが海神の姫のなされ方だったかと、何となく納得できる気もする。 この「お乳岩」から滴る清水で練った飴によって鵜葺屋葺不合命は育ったのだという。この飴を「お乳飴」といい、昔から鵜戸名物として売られている。「お乳岩」を触ったり、「お乳飴」を舐めると母乳の出がよくなるなどといった言い伝えがあり、出産前後の母親やその身内の人たちが買い求める姿が昔はよく見られたものだったが、今もそうした風習が残っているのだろうか。
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